去る5月8日秩父ヤソトン会御一行17名が、タイにお着きになりウボンラチヤタニ
をスタートに本年も交流がなされました。
本年は、共に市長が変わりまして、秩父市では先日の選挙にて、新しい市長にな
っての交流になり、またヤソトン市は、昨年の選挙にて市長になったグリエンカイ氏
に対するリコール裁判で、祭り2日前に裁判で勝っての対応でした。
この交流も16年を迎えまして、マンネリ化したお祭り参加交流であった事は、両市
に現れた最近でした。文化交流といってもロケットにとどまり、両市にとって利になる
行動はなんらありませんでした。日本へもヤソトンのハイソな市民が、こぞって参加
に止まり、この交流から得るべき者を吸収したいと言う市民には、参加のチャンスが
なかったのは事実です。これまでに、姉妹都市にこぎつけた事によってタイ国観光庁
も参加、年々大きな行事になりヤソトン県、ヤソトン市起こしにつながったのに残念で
した。
このような盛大なバンファイ祭りになったきっかけは、まだヤソトン県がウボンラチャタ
ニ県のひとつの郡にすぎなかったころ、あるここに住む村長さんの協力で、世界まる
ごとハウマッチの取材で訪れ撮影したことに始まります。この村長さんは、私共の希
望に対して村を縦断する道路で左右二つに村人を分け、それぞれにバンファイロケット
作りをさせ、更に現在では大きなバンファイパレードになっておりますが、このように2
つの行列を準備させ、村人の老若女性の踊りを先導にパレードまで設定してくれまし
た。現在の盛大なオープニングの正にミニチュア版で素晴らしいものでした。この番組
をご覧になった当時の町長、猪野氏が、共通の伝統文化があるとの事にて、興味をも
たれたのがきっかけです。吉田町では、龍勢ロケット伝統文化が農耕、竹文化のアジ
アに共通したものとあるのではと考えられたようです。
番組をコーディネートした弊社にご連絡頂き、ヤソトンとの接触がはじまりました。この
交流が実行されるまでには、ヤソトン市長も第一回目のコンタクトの市長、訪問団が結
成された2回目のコンタクトでは、新市長に。3回目のコンタクトでは、この市長奥様の
出すぎた動きで落選、1回目の市長に戻り。正式に訪問団が訪れる事になった4回目
の訪問では、2回目の市長に戻っており、タイの複雑さも感じさせられました。結果的
にはこの市長と交流14回まで一緒と言うことになりました。この間日本を訪れた御一
行は、吉田の龍勢会館をみて、ヤソトンロケット館を建立したり、オープニングパレード
会場の客席やぐら、発射会場の客席やぐらなど整然とした、安全第一の行事を設定し
まして、内務省高官、時の大臣、県知事の参加で行事は、年々盛んになり市内も各村
も整備されタイを代表するイベントに、県お越し、市お越しを完成させております。
ここまで吉田によりまして、日本館をつくろうとの提案と資金補助の話もあり、ここでヤ
ソトンの中学生、高校生に日本語教師を送り、日本語になじませ、コンピューターを入
て日本との授業交換をしようとのプロジェクトも上がりましたが、ヤソトンサイドの今少し
の積極性がなく実現しませんでした。
しかしながら、現市長になりました昨年より、日本に伺った折にも、例年であれば打ち
上げ日には、旅行社手配の車が朝から手配され11時頃には、富士箱根観光に出て
いたものが、秩父市の環境モデルプロジェクトの見学、バイオトイレ施設の見学と遊び
を全く無くしての行動をされ、当時の栗原市長とホームスティーの学徒交換などの会議
の設定など、また埼玉県知事への面談など全く変わりました。当然参加している方々も
これまでのハイソな市民ではなく、県知事をはじめ県、市の管理職、職員が中心になっ
ておりました。
これを受けて秩父吉田訪問団も、本年は全く観光を組み込まずラジャパットウボンラチヤ
たに国立大学交流、バンファイロケット祭り参加と県知事、はじめ県と市の中心メンバー
との会議、本年度日本に訪問するまでの相互の課題確認など有意義な日程を消化され
ました。いろいろありましたが、日タイ間の中で代表的モデルケースの伝統文化交流が、
より進んだ実りあるものになる事を希望する一人です。
撮影時に一連の行事、ロケット製作(これが番組でのロケット一本ハウマッチでした。)は、
お陰で素晴らしい出来でしたが、問題は打ち上げ場所、私達はこんなにすごいものと考え
ていなかったものですから、どこでも出来るだろうと安易に考えておりました。然し打ち上げ
許可が出ません。仕方なく隣のロイエット県県知事にお話をしましたが、若しロケットが落
ちて田んぼへの被害、人身事故があってはいけないので、許可を出せぬと言われ、どうし
て?と言う感じで捜し、結局ラオスに向けてメコン河流域で打ち上げる事に話を決めまして
更にムクダハンまで移動、打ち上げました。発射台もありませんから大木に架けました。
我々も恐怖なんてありませんから、バンファイの近くにスタンバイ、打ち上げました。ところ
が。。。。。。ゴーというまるでミサイルのような音を聞き、互いも心配せず我先に逃げまし
た。。。。。。。。。撮影どころではありません。ロケットの恐ろしさを身をもって感じさせられ
たバンファイとの遭遇でした。
をスタートに本年も交流がなされました。
本年は、共に市長が変わりまして、秩父市では先日の選挙にて、新しい市長にな
っての交流になり、またヤソトン市は、昨年の選挙にて市長になったグリエンカイ氏
に対するリコール裁判で、祭り2日前に裁判で勝っての対応でした。
この交流も16年を迎えまして、マンネリ化したお祭り参加交流であった事は、両市
に現れた最近でした。文化交流といってもロケットにとどまり、両市にとって利になる
行動はなんらありませんでした。日本へもヤソトンのハイソな市民が、こぞって参加
に止まり、この交流から得るべき者を吸収したいと言う市民には、参加のチャンスが
なかったのは事実です。これまでに、姉妹都市にこぎつけた事によってタイ国観光庁
も参加、年々大きな行事になりヤソトン県、ヤソトン市起こしにつながったのに残念で
した。
このような盛大なバンファイ祭りになったきっかけは、まだヤソトン県がウボンラチャタ
ニ県のひとつの郡にすぎなかったころ、あるここに住む村長さんの協力で、世界まる
ごとハウマッチの取材で訪れ撮影したことに始まります。この村長さんは、私共の希
望に対して村を縦断する道路で左右二つに村人を分け、それぞれにバンファイロケット
作りをさせ、更に現在では大きなバンファイパレードになっておりますが、このように2
つの行列を準備させ、村人の老若女性の踊りを先導にパレードまで設定してくれまし
た。現在の盛大なオープニングの正にミニチュア版で素晴らしいものでした。この番組
をご覧になった当時の町長、猪野氏が、共通の伝統文化があるとの事にて、興味をも
たれたのがきっかけです。吉田町では、龍勢ロケット伝統文化が農耕、竹文化のアジ
アに共通したものとあるのではと考えられたようです。
番組をコーディネートした弊社にご連絡頂き、ヤソトンとの接触がはじまりました。この
交流が実行されるまでには、ヤソトン市長も第一回目のコンタクトの市長、訪問団が結
成された2回目のコンタクトでは、新市長に。3回目のコンタクトでは、この市長奥様の
出すぎた動きで落選、1回目の市長に戻り。正式に訪問団が訪れる事になった4回目
の訪問では、2回目の市長に戻っており、タイの複雑さも感じさせられました。結果的
にはこの市長と交流14回まで一緒と言うことになりました。この間日本を訪れた御一
行は、吉田の龍勢会館をみて、ヤソトンロケット館を建立したり、オープニングパレード
会場の客席やぐら、発射会場の客席やぐらなど整然とした、安全第一の行事を設定し
まして、内務省高官、時の大臣、県知事の参加で行事は、年々盛んになり市内も各村
も整備されタイを代表するイベントに、県お越し、市お越しを完成させております。
ここまで吉田によりまして、日本館をつくろうとの提案と資金補助の話もあり、ここでヤ
ソトンの中学生、高校生に日本語教師を送り、日本語になじませ、コンピューターを入
て日本との授業交換をしようとのプロジェクトも上がりましたが、ヤソトンサイドの今少し
の積極性がなく実現しませんでした。
しかしながら、現市長になりました昨年より、日本に伺った折にも、例年であれば打ち
上げ日には、旅行社手配の車が朝から手配され11時頃には、富士箱根観光に出て
いたものが、秩父市の環境モデルプロジェクトの見学、バイオトイレ施設の見学と遊び
を全く無くしての行動をされ、当時の栗原市長とホームスティーの学徒交換などの会議
の設定など、また埼玉県知事への面談など全く変わりました。当然参加している方々も
これまでのハイソな市民ではなく、県知事をはじめ県、市の管理職、職員が中心になっ
ておりました。
これを受けて秩父吉田訪問団も、本年は全く観光を組み込まずラジャパットウボンラチヤ
たに国立大学交流、バンファイロケット祭り参加と県知事、はじめ県と市の中心メンバー
との会議、本年度日本に訪問するまでの相互の課題確認など有意義な日程を消化され
ました。いろいろありましたが、日タイ間の中で代表的モデルケースの伝統文化交流が、
より進んだ実りあるものになる事を希望する一人です。
撮影時に一連の行事、ロケット製作(これが番組でのロケット一本ハウマッチでした。)は、
お陰で素晴らしい出来でしたが、問題は打ち上げ場所、私達はこんなにすごいものと考え
ていなかったものですから、どこでも出来るだろうと安易に考えておりました。然し打ち上げ
許可が出ません。仕方なく隣のロイエット県県知事にお話をしましたが、若しロケットが落
ちて田んぼへの被害、人身事故があってはいけないので、許可を出せぬと言われ、どうし
て?と言う感じで捜し、結局ラオスに向けてメコン河流域で打ち上げる事に話を決めまして
更にムクダハンまで移動、打ち上げました。発射台もありませんから大木に架けました。
我々も恐怖なんてありませんから、バンファイの近くにスタンバイ、打ち上げました。ところ
が。。。。。。ゴーというまるでミサイルのような音を聞き、互いも心配せず我先に逃げまし
た。。。。。。。。。撮影どころではありません。ロケットの恐ろしさを身をもって感じさせられ
たバンファイとの遭遇でした。
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