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タイで30年 テレビ・CM製作のコーディネーター タイミカサ

不思議な国、タイその3

ラオスに参り、友好橋を渡ってノンカイ、ウドンタニに戻ったお話いたしました。
このノンカイ、ウドンタニ県近辺でも、これまでの撮影手配の中で、ネタとして取り上げたもの
が、多くあります。
ノンカイでは、メコン河流域にて、岸辺に高い土の塔が多数点在する時期があります。本当
に不思議な現象です。これは何かといいますと、3メートル近いミミズが作り出すものです。
3メートル近いミミズ見たことありますか。威容ですね。バンコクのヤワラ中国人街に参ります
と、このミミズ含めて漢方薬として乾燥されたものが売られております。メコン流域調査の対
象にもなっているようですよ。
このノンカイでの雨季入り時の怪奇現象として、メコン河の水底より打ち出されるような?火
の玉、バンファイパヤナークと呼ばれる竜神ロケットがあります。多いときにはその流域で数
百発が上がるともいわれております。タイのテレビ局毎年撮影クルーを送って、この不思議に
迫ろうとしております。いまだに人的なのか。。。。。これは影を潜め、燐などの自然現象なの
か解っておりません。毎年多くの国から、県からそれを見ようと集まってきます。ナショナルジ
オグラフィーなど潜水チームまで出して、不思議に迫ろうとしましたが、メコン河の赤い粘土質
の透明度ない川水にて、目的が果たされておりません。
ウドンタニでは、日本のそうめんに似た米粉の麺、カノムチン作りの村があります。このカノム
チン、タイのどこのエリアに行ってもありまして、冠婚葬祭全てで必ず出されるものです。これ
をここでは、村興しに作っております。皆様ご存知のグリーンカレー、ゲンキオワンなどで食べ
るものです。引越しそば、年越しそばを思わせます。朝のうちに、近隣地域に売られるこのカノ
ムチン作り、米粉を溶いて熱水に流し込まれて作られる様子は見ものです。またここには、べ
トナム戦争当時より難民として参った、ベトナム人の食文化もあります。ネムムアンと呼ばれる
豚肉団子であり、ムーヨーと呼ばれるベトナムソウセージ、グンパンオイとよばれるサトウキビ
に巻いたエビのすり身など、いずれも多くの野菜と一緒に食べる為、ヘルシーさで好まれて食
されております。
ベトナム戦争当時、このウドンタニには多くのアメリカ軍人が駐屯しておりました。北爆に対す
るラオスへの軍事行動拠点として、サタヒップ東海岸からランパーン経由ナコンパノム、ここか
らラオス領シエンクワンへの北爆に向かう拠点として、アメリカ沿岸警備隊が無線通信担当で
駐屯していたようです。CIAが麻薬操作の事件を作る拠点でもあった様で、駐屯中にタイ女性
と結婚したり、帰隊後戻ってきたりで、パタヤなどに引けを取らぬアメリカ旧軍人の街です。日
本人など相手にされません。それは。。。。。。結婚したタイ女性の子供たちの多くが、タイの
芸能界を風靡しておりますので、将来の金の卵を得るからです。そこに集まる女性たちは、自
分より生まれてくる子供たちにかけるわけです。タイ人と変わらぬ目の細い日本人などには、
目もくれません。2009年5月には、日本人が捨てていった混血児が、父を捜してなど暗いタ
イの内政問題から目をそらす為、話題になりました。この報道に新聞テレビが飛びつき、その
結果更に多くの混血児が名乗り出ましたが、アメリカ人、ヨーロッパ人と子供を作るこの東北
タイの女性達は、十分将来を計算しつくしているのではないでしょうか。強さを感じます。
このウドンタニから東に100キロほど参りますと、サコンナコン県にでます。ここは、メコン河
を挟んでラオスに国境を接します。この県のパナットニコム郡には、飼っている水牛を面倒み
る犬がおります。朝、飼われている数頭の水牛を雑草の多い餌場に連れて行き、夕方その
水牛を牛舎に戻します。終日水牛のそばから離れませんし、餌は腹持ちの良いもちごめを
与えられるにすぎません。先頭の水牛の背中に乗って移動する姿は、村人たちの話題にな
っております。バンコクには、字の読める犬ビザ君が、追ったり変わった動物ネタにも事欠き
ません。
そしてここには、サマイさんと言う心霊治療者がおります。これは、信じるとか信じないでなく
て、苦しむ病気が治った痛みが引いたなど、治療を受ける方の気持ち次第ではないでしょう
か。以前番組でも話題になりましたが、一度心霊治療研究者、脳波測定器など持ち込んで
撮影いたしました。許可を得て、脳波測定器を付けさせて頂きました。受霊前に設置、その
時には正常な脳波の周期でしたが、受霊すると共に直線になってしまいました。電力が落
ちたのか、家が傾いているのではないか、いろいろな条件をチェック致しましたが、問題は
ありませんでした。どう考えたらよいか解りませんでした。
ここの治療と言うのは、体のある部分に噛み付くように致します。多分口の中で、カマイタチ
のような現象が起こるのでは?と考えられるように、咥えた横の形ではなく、立てに切り口
が付きます。それを指で広げますと、中から髪の毛、ピン、クリップ、ハリなどと真っ黒な血
の塊が出ます。出した後その傷口は、なぞるようにしてふさぎます。傷口は多少ちにまみれ
ております。縫うとか無くくっついてしまいます。その傷口は、2ヶ月ほどで白い傷口を残すの
みです。化膿止めの抗生物質を飲む程度で、他の治療は一切ありません。歩けず戸板で運
ばれた患者さんが、1時間ほどの治療で支えられて歩いて帰る姿も見ました。
世界まるごとハウマッチ、なるほどザワールドなどの番組の時代には、面白いネタを提供出来
たようです。こんなネタの掘り起こしは、コンピュウター検索の時代、そこではなかなか上がら
ぬネタとして、面白いのではないでしょうか。これからいろいろ提案してまいりたいと存じます。

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不思議な国、タイその2

丁度、昨日までラオス、ビエンチャンまで行って参りました。現在のビエンチャンの街は、
43年ほど前、在タイの査証更新のため通ったビエンチャンとは違います。この当時は、
バンコクより乗り合いバスにて、約700キロ弱のビエンチャンまで。もちろんエアーコン
車ではなく、窓はあけっぱなしでまだ舗装されていない赤土の国道、到着する頃には、
汗に赤土がこびりつき、何度洗っても落ちません。途中は飛ばしますので、11-2月の
乾季の時に寒く、お金も無い時、そしてこんな気候とは思っておらず情報不足でセーター
もなし、仕方ないので新聞紙を、体に巻きつけての移動など致しました。国境に着きま
すと、タードア間を渡し舟で渡りラオス領に、船着場からビエンチャンまで一人50バーツ
の後合いタクシーで移動。取り合えずタイ大使館まで、なんだかんだ書類申請をした後、
市内朝市に、ここでは市場の真ん中にパテトラオと政府軍が互いに向かい合っている不
思議さも見られたり、このラオス内戦に係わり、アメリカのCIAがバックに立ち、その軍事
資金調達の為の、パテトラオ、蒋介石を逃がす為南下の国民党軍、ミャンマタイヤイ族の
クンサー将軍が絡み合っての麻薬争奪戦、などなど暗い不透明な都市、ビエンチャンで
した。我々は、若いなりにそこに面白さを感じて、いきがった行動をしたものでした。この
頃、当時の辻国会議員(終戦時タイから逃避行を決行した陸軍参謀)が、在ラオス日本
大使館の赤松さんと逢ったのを最後に、ジャール平原で行方不明になった事件もありま
した。ここにもCIA,パテトラオ、北ベトナムなどの絡みが噂されたものでした。建立中の
凱旋門があったり、暗いわけのわからぬ町並み。竹塀に囲まれたバーなど通ったもので
した。
ところが、現在のビエンチャン、朝市はビエンチャンの中心として存在していますが、そこ
には3階建てのショッピングモールが建てられ、拡張工事中。ごちゃごちゃしたイメージは
一掃され明るい市場に変貌、ラオスポップの曲が流れ、タイと変わらぬ、パシン腰巻から、
変わったナウな服装の女性たちで溢れております。何時出来るのかわからなかった凱旋
門も完成、観光コースになっております。今回行った時には、ラオス指揮社会主義国家が
建てられた、きっかけになったジャール平原の第一軍団の記念式典なども開催されており
ました。当初日本に続けとスローガンを掲げ、アメリカに追従するタイに対抗していた政策
から、資本主義国家としてアメリカ特需を受けて繁栄するタイに、追いつけ追い越せのチン
タナカンマイ政策に変えた効果が大きく出ております。
現在では、タイ、ノンカイからの鉄道も開通、第二、第三までの友好橋が完成されてより、
人も物も産業、資本など多く交流されております。これまでは、ラオス通貨は無視されて
おりました。ドル、タイ通貨が大手を振っておりましたが、かわりました。
12月には、ラオス最初の国際スポーツ大会シーゲームを主催、インターナショナルフィル
ムフェステバルも第3回を迎えたり、国際的機能を果たすようになってきております。
ここラオスにも、伝統文化としてのロケット祭りもございます。ただ高く打ち上げるタイと違
い、ラオスでは遠くに飛ばして何分の競技です。ワンカム先生やらロケット名人も多くおり
ます。ワットチェディールアン、ラオスを代表する黄金パゴダ寺院の裏手には、その名人が
おられ、街中で売られてもおります。
今回は、ビエンチャンのみでタイ、ウドンに戻りましたが、続いて昆虫で有名なシエンコン、
ここは枯葉剤北爆で丸裸の山並みのエリア、何に使われたのか、大きな石の壷の散在
するエリア、現在では国際的保護され始めた世界一の淡水魚プラブクの捕獲されるホエ
サイなど興味ある場所などご紹介いたしたいと存じます。
さて、戻ってまいりましたウドンタニですが、国境ノンカイより約60キロ、そしてここには、
世界最古とアメリカペンシルバニア大学で証明されるとされる、バンチェンの壷、証明され
ると、メソポタミア文明より100年、中国文明より1000年古い文化があったとされるそう
です。また巨大な石のテーブルパーテム、これはピラミッと文明につながるものでないか
と、一説には唱えられておりますが、海底に存在するといわれるシミラン島付近のスンダ
ランド、ピラミット文明に繋がるものではと見られておりますが。
更にヤソトンのみ有名になりましたが、ロケット祭りとそのロケットを作る村など興味深い
県です。

不思議な国、タイ

閑話休題なお話をさせて頂きます。
最近インターネットに、撮影ネタを検索される方法が取られるのが主体だと存じます。
20年位前までは、不可思議なネタを追うタンパイドゥー(行ってみてみよう。)などと言う
番組がタイでは面白く見られておりました。国内各県を廻り、特殊人間のいる県はなんと
なく優越感を感じるような番組構成でした。イベントでは、蚊をキャッチするコンテスト、目
隠しボートレース。タレントでは、鉄の口を持つ36歳の女性(当時)、4つの楽器を同時
にこなすミュジッシャン、口でプレイするスヌーカー、蛍光灯の橋歩き、ガラス破片飛び降
り、のど仏に鉄線をあて曲げる、頭で釘打、真っ赤な炭火食べ、のど仏で鉄線をかけ車
を引っ張る、釣り糸でびんを釣り体にぶら下げる、空手でやしの実割り、空手でドリアン
割り、素手でやしの皮むき、こぶしで釘打、体を吹き矢の的になど50種ほどある。動物
でも3つの頭の亀、買い物をする犬、水牛を朝牧草地に夕方家まで連れ帰る、僧一緒に
托鉢する犬、椰子の実とりと皮むきする犬、素手での魚とりなども話題を呼びました。ま
たツバメの巣になったホテルと町にある高層の建物はツバメの巣のマンションで人は一
階2階で細々と?のパクパナン。チュタカムラムテープと言うプラクアンと呼ばれるお守り
の仏像ですが、100万バーツの値の付く物もあって大変な経済効果を生んだナコンシー
タマラート県。最近では取り上げられなくなった面白楽しいネタがたくさんありました。
これは信ずる人、信じない人となり難しいのですが、治った人にとっては喜びを感じさせ
る心霊治療もありました。
本日なんでこんな昔のネタ話をしたといいますと、2009年5月19日カオソット紙に、ウタ
ラディット県ハットソンケオ寺院住職が、2インチの釘が大腸内にあり、手術で摘出したそう
ですが、どうして体内に入ってのか不明と言う記事が、またぞろ出てきました。こんな話は
以前よりありまして、これが体調を崩し、痛みとか体が動かせない、寝たきりになったとか
の原因と考えられておりました。実は、私も世界まるごとハウマッチの番組取材で、自身
の体内から釘が出ました。ありえないといわれますが、実際に出たのです。それが出るま
では右肩が痛く、上がらずものも投げられなかったり、重いものも持てぬほどでした。四十
肩の類ではないかと思っておりました。そんな時くぎ抜き治療が10バーツほどで施され、
患者が1日50名ほど訪れるという話の情報で、難しい心霊術者から何度か通って撮影許
可を頂き撮影に。確かに多くの患者さんが訪れ、見ている前で釘がどんどん出ます。もち
ろん血も出ます。出ているのは間違いない。。。。。?、丁度地元の患者が途切れた時に、
じゃー実際に我々もとなり、コーディネーターの私が最初と言うことになりました。心霊術者
は、柳の木を束ねたもので私の体を透視します。この柳の束ですが天界との電話機にもな
ります。その時、術者がピックッとしました。そのときのクルーの動き早かったですね。と申
しますのは、この動作があると何かが入っている核心なのでした。確かに私の右肩がつま
まれ、カッターナイフで盛り上がった先端が切られますと、釘が見えて術者は何とペンチで
引き抜きましたが、もちろん我慢できる痛みはありましたが、錆びた頭のない棺桶に打ち
込む釘が出ました。出た傷の後には金箔を張るだけ(この傷2ヶ月ぐらいでうすくなりまし
たが)、但しそれまで廻らなかった方が痛みなく廻るようになりました。しばらく話題になり
まして、うそか誠かと若いマジッシャンがきて、これよがしにここです。。。ここです。。。。。
など行っておりましたが、術者の手の中には何もありませんでした。これには、後日談が
ありまして、山岳民族の村で起こした不始末で、コーディネーターの私が、釘を入れられた
ようでしてその時にはぴかぴかの釘が出ました。
こんな事を思い出して書いてみました。心霊治療にはいろいろありまして後日また続けま
す。

2009年ヤソトン秩父吉田ロケットバンファイ祭りに参加して

去る5月8日秩父ヤソトン会御一行17名が、タイにお着きになりウボンラチヤタニ
をスタートに本年も交流がなされました。
本年は、共に市長が変わりまして、秩父市では先日の選挙にて、新しい市長にな
っての交流になり、またヤソトン市は、昨年の選挙にて市長になったグリエンカイ氏
に対するリコール裁判で、祭り2日前に裁判で勝っての対応でした。
この交流も16年を迎えまして、マンネリ化したお祭り参加交流であった事は、両市
に現れた最近でした。文化交流といってもロケットにとどまり、両市にとって利になる
行動はなんらありませんでした。日本へもヤソトンのハイソな市民が、こぞって参加
に止まり、この交流から得るべき者を吸収したいと言う市民には、参加のチャンスが
なかったのは事実です。これまでに、姉妹都市にこぎつけた事によってタイ国観光庁
も参加、年々大きな行事になりヤソトン県、ヤソトン市起こしにつながったのに残念で
した。
このような盛大なバンファイ祭りになったきっかけは、まだヤソトン県がウボンラチャタ
ニ県のひとつの郡にすぎなかったころ、あるここに住む村長さんの協力で、世界まる
ごとハウマッチの取材で訪れ撮影したことに始まります。この村長さんは、私共の希
望に対して村を縦断する道路で左右二つに村人を分け、それぞれにバンファイロケット
作りをさせ、更に現在では大きなバンファイパレードになっておりますが、このように2
つの行列を準備させ、村人の老若女性の踊りを先導にパレードまで設定してくれまし
た。現在の盛大なオープニングの正にミニチュア版で素晴らしいものでした。この番組
をご覧になった当時の町長、猪野氏が、共通の伝統文化があるとの事にて、興味をも
たれたのがきっかけです。吉田町では、龍勢ロケット伝統文化が農耕、竹文化のアジ
アに共通したものとあるのではと考えられたようです。
番組をコーディネートした弊社にご連絡頂き、ヤソトンとの接触がはじまりました。この
交流が実行されるまでには、ヤソトン市長も第一回目のコンタクトの市長、訪問団が結
成された2回目のコンタクトでは、新市長に。3回目のコンタクトでは、この市長奥様の
出すぎた動きで落選、1回目の市長に戻り。正式に訪問団が訪れる事になった4回目
の訪問では、2回目の市長に戻っており、タイの複雑さも感じさせられました。結果的
にはこの市長と交流14回まで一緒と言うことになりました。この間日本を訪れた御一
行は、吉田の龍勢会館をみて、ヤソトンロケット館を建立したり、オープニングパレード
会場の客席やぐら、発射会場の客席やぐらなど整然とした、安全第一の行事を設定し
まして、内務省高官、時の大臣、県知事の参加で行事は、年々盛んになり市内も各村
も整備されタイを代表するイベントに、県お越し、市お越しを完成させております。
ここまで吉田によりまして、日本館をつくろうとの提案と資金補助の話もあり、ここでヤ
ソトンの中学生、高校生に日本語教師を送り、日本語になじませ、コンピューターを入
て日本との授業交換をしようとのプロジェクトも上がりましたが、ヤソトンサイドの今少し
の積極性がなく実現しませんでした。
しかしながら、現市長になりました昨年より、日本に伺った折にも、例年であれば打ち
上げ日には、旅行社手配の車が朝から手配され11時頃には、富士箱根観光に出て
いたものが、秩父市の環境モデルプロジェクトの見学、バイオトイレ施設の見学と遊び
を全く無くしての行動をされ、当時の栗原市長とホームスティーの学徒交換などの会議
の設定など、また埼玉県知事への面談など全く変わりました。当然参加している方々も
これまでのハイソな市民ではなく、県知事をはじめ県、市の管理職、職員が中心になっ
ておりました。
これを受けて秩父吉田訪問団も、本年は全く観光を組み込まずラジャパットウボンラチヤ
たに国立大学交流、バンファイロケット祭り参加と県知事、はじめ県と市の中心メンバー
との会議、本年度日本に訪問するまでの相互の課題確認など有意義な日程を消化され
ました。いろいろありましたが、日タイ間の中で代表的モデルケースの伝統文化交流が、
より進んだ実りあるものになる事を希望する一人です。
撮影時に一連の行事、ロケット製作(これが番組でのロケット一本ハウマッチでした。)は、
お陰で素晴らしい出来でしたが、問題は打ち上げ場所、私達はこんなにすごいものと考え
ていなかったものですから、どこでも出来るだろうと安易に考えておりました。然し打ち上げ
許可が出ません。仕方なく隣のロイエット県県知事にお話をしましたが、若しロケットが落
ちて田んぼへの被害、人身事故があってはいけないので、許可を出せぬと言われ、どうし
て?と言う感じで捜し、結局ラオスに向けてメコン河流域で打ち上げる事に話を決めまして
更にムクダハンまで移動、打ち上げました。発射台もありませんから大木に架けました。
我々も恐怖なんてありませんから、バンファイの近くにスタンバイ、打ち上げました。ところ
が。。。。。。ゴーというまるでミサイルのような音を聞き、互いも心配せず我先に逃げまし
た。。。。。。。。。撮影どころではありません。ロケットの恐ろしさを身をもって感じさせられ
たバンファイとの遭遇でした。

ヤソトンバンファイ、ロケット祭り年々盛んになっております。

2009年度ロケット交流が明日から(5月8日)スタートいたします。
タイのバンブーロケットは、バンファイト呼ばれ日本でも広く知られるように
なってきました。現在では東北タイを中心に多くの県、場所で大小ありま
すが、この5月以降、雨季入り時期に打ち上げられます。特に埼玉県秩父
市(旧吉田町)が、1994年ヤソトン県ヤソトン市と伝統文化交流団を派遣
し、相互に交流を深めており、年々盛大な祭りになってきております。県お
越し、市お越しになっております。ヤソトン市は、年々市内が整備され美し
い町並みが見られるようになっております。
本年も埼玉県秩父吉田の方々が、5月8日ご到着、その夜ウボンラチャタ
ニラジャパット国立大学との交流会をスタートに、9日ヤソトンに向かい、山
車に乗せられたロケットのパレードに参加、10日打ち上げと、5日間にかけ
て開催される祭りに共同主催と言うかたちで参加されます。ヤソトンでは、
これまで雨乞いの意味を持って、出来るだけ高く高く上がるが良いという打
ち上げであって、年々火薬量が多くなる事で、暴発事故が多発など死人も
出たほど。最近では吉田龍勢ロケットの参加交流で、低くても美しいロケッ
トになってきている傾向が見られます。東北タイは、タイ国土の三分の一を
占めるが、赤土の粘土質、乾季にはからからに乾き地割れが見れるほど、
雨季には大洪水と灌漑水利も万全でなく、雨季から乾季へと水位の大きな
変化は塩土化を高める。東北タイでは、雨季の訪れが非常に重要になるわ
けで、バンファイを打ち上げ雨乞いをするわけであります。うまく上がれば大
きな歓声が、思うように飛ばなければ、泥土池に打ち上げ者はほおり込ま
れるなど、祭りは作物の豊凶を占う儀式でもあります。
秩父市とヤソトン市の交流の経緯は、1994年6名の旧吉田町役場石嶋
氏を団長とする交流団に始まり、1995年石間戸団長以下8名がヤソトン
市招待で訪タイ。大きな転機を迎えたのは、1996年横田団長以下8名が
ヤソトンを訪れバンファイ祭りに参加、その際にヤソトン市長ウイラワット氏に
吉田町よりの招聘状を渡され、同年10月10日の龍勢祭りに46名のヤソ
トン訪日団が吉田を訪れ、この年より日タイ相互の訪問が始まりました。
1997年には、吉田より25名の訪タイ団が猪野町長を団長に実施されて、
1998年にはサマイ ホンセンヤソトン県県知事を団長に55名の訪日が実
施され、年々活発になると共に、1999年には、町田団長他9名の訪タイの
の際、姉妹都市提携の調印式が行われました。同年ヤソトンより45名の訪
日団が訪れ、日本に手の姉妹都市宣言調印式がなされ、2000年には、スリ
ワンワリー マヒドン王女殿下がご参加されたり、2002年には、交流10周
年記念としてヤソトン市よりパレード山車が寄贈されました。2003年よりは、
文化交流のバックアップたるウボンラチャタニラジャパット国立大学学長の参
加と民族衣装の贈呈もありました。タイ観光庁の積極的参加協力もありまし
て、本年度(2009年)には、学生交流などのホームスティーなど積極的交
流に進んでまいる様相です。