タイで30年 テレビ・CM製作のコーディネーター タイミカサ

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2008年も本日が最後です。

本年も昨年末よりの仕事で、ラオスの手配で終わります。
29日までラオスサワナケット中心のご手配いたしました。ラオスも日ごとに整理された街に
変わってきております。ビエンチャンには、以前民主系共産系が退治した事務所を持ってい
た、朝市も整然とした市場になり、ショッピングモールも出来ました。40年近く前より滞在延
長の査証更新の為、バンコクから赤土の国道をまじえて真っ赤になりながらノンカイに、渡し
船で対岸に渡りラオスに入国、そこから一人50バーツの乗り合いタクシーにてビエンチャン
タイ大使館に、翌日取得の為一泊するのですが、当時一軒だけの高級ホテルランサンホテ
ルに泊まる金も無く、竹で作られたアンペラ建ての、50から100バーツの安ホテルに宿泊
でした。其のときの朝市は、まさに街の生活の全ての中心でした。市場の真ん中に、共産
プリンスの率いる部隊と政府軍が、互いに銃を持ちにらみ合っているにかかわらず、市民は
平気で日常生活を、そして双方の軍人も軍務を離れると、互いに市場でお買い物風景でし
た。それが大きく変わってしまいました。タイ的な、韓国的なファッションと髪型の若者達が、
行き来する新しい街になっております。ラオポップなるブームで、コンサートが開かれたりと
日本の援助にてイベント広場も完成いたしております。
私達がラオスに行っていた当時は、ラオス日本大使館の旧軍人日本人スタッフを訪ねた後
ジャール平原にて、行方不明になった国会議員、太平洋戦争中の有名参謀だった辻 政信
氏が行方不明になり、終戦時タイから中国本土を経て日本に逃避行した経歴から、北ベトナ
ムに行ったのではないかなど、憶測された時代でした。
ラオスは当初、日露戦争でアジア人がはじめて勝った国として、日本に対する信望厚く、日
本に追いつけという政策をとって、アメリカに追従するタイを軽蔑しておりましたが、ベトナム
特需など近代化の進むタイを見て、それまでの日本という目標から、タイの追いつけ追い越
せのチンタナカンマイ(新政策)政策をとり、国境事情から子供達が、日本の漫画をタイ語テ
レビで見てラオス語を忘れていく、重大な問題から日本の援助などでラオス語識字教育を
進めたりの努力は、今も続いてはいるとは思われますが、取った政策は成功したようです。
以上のことは、あくまでも主都ビエンチャンであって、地方では多くの問題は抱えているよう
です。民族的にも、高地ラオ人(モン族が中心でベトナム戦争においても、アメリカの傭兵と
なって戦いそのために、べトコン、北ベトナム兵との直接直接戦闘となり、アメリカの北爆は
国道9号線以北シエンクアン県を中心に行われ、それ以前大戦終戦後は、反共と称しての
CIAの手先となっての麻薬王クンサー、アメリカの援助を受ける政府軍と三つ巴の戦闘をし
ていた山岳民族。)中地ラオ人、低地ラオ人に分かれており苦しい政策実行にはなっている
ようです。言語、生活習慣、宗教も違いますし難しそうです。
今回もベトナム国境近くに位置する村でして、住民もラオス人ではなく言葉もラオス語では
ありません。ベトナムに近い為、軍事基地も近くにあり深夜など事件が起こる要素を持って
いる場所でした。ラオス政府のスタッフの影ながらの協力にて、県知事、郡長、軍司令、警
察の全てに根回しいたしました。話の発端は日本の政府系のボランテアの方を通してです
が、ラオス人の援助にまつわる話には、援助を切られるので絶対服従というお国柄を理解さ
れておらず、村との話だけのようであったのには、場所柄現地にスタッフを向かわせてびっく
りいたしました。また人を使う場合も援助系については、大きな援助が後からついてくるので、
対手の言うとおり日当4-8ドルなど、そば一杯で終わってしまう金額でも同意、我々が仕事
として依頼した場合は、冗談ではない。。。。そば一杯も食えないじゃないか。と拒否されてし
まいます。JICAの方々も、もう少し現実を見てのアドバイスいただければと、何か問題が起
こってからでは遅いのではないかと存じます。これまでいろいろのボランテアの方々ともお仕
事させていただきましたが、民間の方々は、此の点しっかりとしたアドバイスとスタッフのご
紹介いただいております。今回は、ラオス政府の方が、理解を頂きご協力いただけましたの
で、細かい説明せず処置はさせていただいたようです。
サワナケットからは国道9号線がベトナムドンハーまで延びております。ここは同時にアメリ
カにとって反共の拠点だった、タイとベトナムが一番近く結ばれる位置として重要視された拠
点でもありました。一歩奥地に入れば地雷、不発弾があるやも知れません。以前は、このあ
たり北爆数多い爆弾の破片が出て、10輪トラックがひっきりなしに往復、トラック一杯の爆弾
くずと当時援助の粗悪なロシア鉄をまぜ、コンテナ船でタイにタケクなどから送り製鉄しなおし
利用しておりましたことを、世界まるごとハウマッチで取材したことがありました。其の当時は、
この国道9号線爆弾のアナだらけ、撮影車5人ほどでしたが一般車両は動かせず10輪トラッ
でした。其の当時と比べればこのあたり変わっているのでしょうね。

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コモドドラゴン。インドネシア

現在100頭余りを残すだけと言われるコモドドラゴン。
コモドドラゴンは、インドネシアコモド島に、主に生息していることより呼ばれるように
なった。ジャカルタより各島を転々と渡りコモド島に、この島に近ずくに連れ、周囲の
海は、吸い込まれるような黒味を帯びた、吸い込まれる恐怖感を感ずる深いブルー
色と大きな波に漂う雰囲気となる。
海を泳ぐコモドドラゴン、移動も見られリチャ島にもみられる。体長3メートルは優にあ
り、キリボタン島など150万年前から生息しているとも言われる。200万年以後地
形の変化の中、生き残ったと信じられている。ダイノサオと同じ時代に生きていたの
かもしれない。
唾液には、悪性バクテリアをヘビの毒のように持ち、噛まれた動物は数時間で死に
いたる。
最近の調査では、オスが多苦なっているとの報告もある。コモドドラゴンの卵はワニ
と同じく、穴の中に産み落とされる。
餌は死んだ動物、もちろん唾液の悪性バクテリアで死んだ動物、オスが多くなった
ことから、メスの取り合いでお互い傷つくことはあるが、コモド同士では免疫がある
のか、悪性バクテリアでは死ぬことが無い。
南太平洋では、ダーウインの島のように前史時代の生き物が見られるところが多い
が、このコモドドラゴンもそうと言える。血のにおいに敏感で、コモド島の高台に一本
の十字架が立つ。これはたまたま訪れた女性が、メンスであった為その臭いにコモド
が敏感に反応襲われ命をなくした方のものだと言う。
現在では、林野庁の管轄で保護されていると言われている。もちろんコモド島にも一
般住民はいるのだが、彼等は村にコモドが現れても殺さず、追い払うだけとの事であ
るが、水の多いトイレなどに出没することが多いそうであるが。
このコモドでロケをしたことがあり、どこから出てくるのかとびくびくしながら、探し回っ
た訳ですが、大きな体の割にはのっそのっそ歩くのが大変早かった印象が強く残って
おります。ここでロープに鶏をつけ、コモドドラゴンの前を歩き、追ってくるコモドドラゴン
をハリセンで叩くと言う恐ろしい企画でした。現場の森林庁スタッフには言えず、はな
はだ困りました。更にそのタレントがコモドに対する恐怖から、s字に逃げろのアドバ
イスを忘れ、我々に向かってきた為あわただしく、我々も逃げ回った、今考えれば楽
しいような思い出もありました。
コモドドラゴンの話で、これまでも今考えると、恐ろしいようなコーディネートもありまし
た。あんぐりと開けたワニの口の中に、ワニのショー宜しく、頭を入れさせたり、ナンだ
ったんでしょうね。ニシキヘビには2種類あり、皮膚の表面が黄色、黒、むらさきぽか
ったりのもは、人も襲う凶悪さを持っていたりして、これを自然の中で捕獲したりと、あ
りましたネー。
最近では、それだけの強い個性をもった撮影もなくなりましたね?。無いのが普通で
すけど。
動物も、現在では自然保護など、うるさくなりましたがゲテモノ料理としてアルマジロ
などメコン川を渡してラオスから入手したり、野鼠を足のすり音とチッチという口音で
呼び寄せたり、川魚なまずを手掴みで捕獲する名人がいたり、世界最大の淡水魚と
いわれたプラブク、大ナマズの捕獲をメコン川でやったり、200キロ台では相当に大
きかったですね。世界大きなマライ種の鼈の捕獲もありましたですね。
動物だけではなく、ゴキブリではないかと言われたタガメ虫をよる黄色緑の色付けを
し、魚網を張って飛んでくるタガメを捕まえ、これがタイの人にとっては貴重な食材で
あったり、これを羽を掴むようにしてナンプラ漬けのものを、口に入れたときは大騒ぎ
でした。タランチラのような土ぐももありました。良くこんなネタがあったものです。

雑記もろもろ

また時間が空いてしまいました。
この間タイではあってはならない空港閉鎖がありました。その為多くの外国人が大変な
思いをさせられました。権利を主張する自由はあっても、その為に、同国人でない外国人
にまで負担を強いるのはどんなものでしょうか。ましては、世界経済危機のこの折、貿易
外収支一番の観光収入に問題を起こし、関連する総ての産業に問題を残し、また楽しい
タイの観光を十分楽しんだ、そして外貨も落とした観光客に、追い討ちをかけるようなやり
方は、あって良いのでしょうか。
私共でも、この時期2本の撮影手配がありまして状況の変化には踊らされました。幸い
にして撮影内容からタイーカンボジアーベトナム、そして補足撮影としてベトナムーカンボ
ジアータイでしたので、日本サイドの反応も早く、タイーカンボジアと戻し、シェムリアップ
ーホーチミン経由成田にと戻られました。もう一本は、編集の都合があり帰国日を遅らせ
る訳には行きません。そこでカンボジアルート、台湾系の人々が多く利用のマレーシアの
ルート(これは歴史的に、南下国民党軍段将軍に繋がる、国民党軍兵士がタイ北部の山
岳民族と結婚、チンホウと呼ばれる2世達は、台湾の反共政策に絡み一定の年齢になる
と、マレーシアで軍事教練を受け大陸反抗の兵士とする等、当時国民党軍タイ北部基地
には電気まで普及し道路網も整備されたバックアップも絡んでいると思われます。)、皆
陸路でハジャイまで南下して更にクアラルンプールまで、そこから帰国の方法で、日本人
は、プーケットまでそこからエアーアジア、マレーシア航空にてクアラルプール経由日本に
なるのですが、いずれも満席状態。後は急遽オープンしたウタパオ空港スタンバイするか
ですが、足の踏み場も無いほどの混雑の中、必ずしも帰国便が確保できないという状況
でした。一時は朝鮮戦争などの関係から軍事的バックアップで、コーリアエアーラインだけ
はウタパオチェックインが出来るなどの話も上がったりしました。どれも不確実な情報ばか
りでしたので、唯一きずかないルートとしてのラオスを考えてみました。
ありました、バンコクーノンカイ陸上移動、友好橋を渡りビエンチャンに、ビエンチャンから
ラオス北部ルアンプラバンに、ルアンプラバンからハノイ、ハノイー成田につなぎますと、11
時ぐらいスタートで翌日成田早朝6時40分に到着できるとの情報が入ってきました。今ひ
とつのチームは、このルートを選択することになりました。機材もありますので、ラオス情報
文化省パイブン氏と連絡、通関などの下準備も完璧に済まし、30日21時撮影地パタヤ出
発し、1日6時ノンカイ着、7時出入管開くと同時に通過、ビエンチャン市内にて発券手配後
に空港に。無事に送り出すことが出来ました。
とにかくこの時期でありながら、2つの撮影クルーを、予定通りご手配できたのは幸いでした
し、協力してくれた皆様に感謝いたしております。
この時期、各状況に異変があるのかまたまた九死に一生を得ました。
今から14年ほど前に、120キロのスピードにて乗っていたマイクロバスが10輪トラックの後
ろから直撃、この時も4人とドライバーが乗っておりましたが、死者が出るほどの事故であり
ながら、私の同乗の大竹氏の2人のみ入院はしましたが、重傷者はおりませんでした。そし
て2年前バコテリアサイコマレーという悪性バクテリアで2年に渡り4回の手術のおり、90%
死の世界彷徨いました。40%近い死亡率と言われており、弟の義理の親父さん3日間で亡
くなりました。そして3回目、去る11月26日カオヤイ国立公園プラチンサイドよりセンターに
向かう途中、失速?崖に横転、この事故では同じ年の友人ソンポ氏が即死、公園スタッフが
肩の骨を外し、2名が軽症事故でしたが、本来大事故の起こるからだの私、どうしたのか大
した怪我もしませんでした。実を言うとドライバーの酔払い運転による事故でした。ただこれを
公にしますと、公園局など大きな問題になりますので、くやしいながら公表を我慢いたしました
のです。ただ個人的考えますと、最初の事故は、ラマ5世王のメダル式仏像をしておりました
し、今回軽症の会社運転手(私の補助でこの車に乗っておりましたのですが)とわたくしの2
人が、アユタヤプッタイサワン寺院のチュタカムラムテープ(日本の弥勒菩薩?)像をお守りと
して付けておりました。タイに居て小乗仏教に帰依しておりまして、常にお守りとしての仏像を
身に着けておりますが、本当に守っていただいたと感じております。正面に現れてきた2本の
木に、これにぶつかったらおしまいだな!と思いつつ、その寸前で回避されておりました。
こんないろいろの事のあったこの2週間ほどでした。


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