本年も昨年末よりの仕事で、ラオスの手配で終わります。
29日までラオスサワナケット中心のご手配いたしました。ラオスも日ごとに整理された街に
変わってきております。ビエンチャンには、以前民主系共産系が退治した事務所を持ってい
た、朝市も整然とした市場になり、ショッピングモールも出来ました。40年近く前より滞在延
長の査証更新の為、バンコクから赤土の国道をまじえて真っ赤になりながらノンカイに、渡し
船で対岸に渡りラオスに入国、そこから一人50バーツの乗り合いタクシーにてビエンチャン
タイ大使館に、翌日取得の為一泊するのですが、当時一軒だけの高級ホテルランサンホテ
ルに泊まる金も無く、竹で作られたアンペラ建ての、50から100バーツの安ホテルに宿泊
でした。其のときの朝市は、まさに街の生活の全ての中心でした。市場の真ん中に、共産
プリンスの率いる部隊と政府軍が、互いに銃を持ちにらみ合っているにかかわらず、市民は
平気で日常生活を、そして双方の軍人も軍務を離れると、互いに市場でお買い物風景でし
た。それが大きく変わってしまいました。タイ的な、韓国的なファッションと髪型の若者達が、
行き来する新しい街になっております。ラオポップなるブームで、コンサートが開かれたりと
日本の援助にてイベント広場も完成いたしております。
私達がラオスに行っていた当時は、ラオス日本大使館の旧軍人日本人スタッフを訪ねた後
ジャール平原にて、行方不明になった国会議員、太平洋戦争中の有名参謀だった辻 政信
氏が行方不明になり、終戦時タイから中国本土を経て日本に逃避行した経歴から、北ベトナ
ムに行ったのではないかなど、憶測された時代でした。
ラオスは当初、日露戦争でアジア人がはじめて勝った国として、日本に対する信望厚く、日
本に追いつけという政策をとって、アメリカに追従するタイを軽蔑しておりましたが、ベトナム
特需など近代化の進むタイを見て、それまでの日本という目標から、タイの追いつけ追い越
せのチンタナカンマイ(新政策)政策をとり、国境事情から子供達が、日本の漫画をタイ語テ
レビで見てラオス語を忘れていく、重大な問題から日本の援助などでラオス語識字教育を
進めたりの努力は、今も続いてはいるとは思われますが、取った政策は成功したようです。
以上のことは、あくまでも主都ビエンチャンであって、地方では多くの問題は抱えているよう
です。民族的にも、高地ラオ人(モン族が中心でベトナム戦争においても、アメリカの傭兵と
なって戦いそのために、べトコン、北ベトナム兵との直接直接戦闘となり、アメリカの北爆は
国道9号線以北シエンクアン県を中心に行われ、それ以前大戦終戦後は、反共と称しての
CIAの手先となっての麻薬王クンサー、アメリカの援助を受ける政府軍と三つ巴の戦闘をし
ていた山岳民族。)中地ラオ人、低地ラオ人に分かれており苦しい政策実行にはなっている
ようです。言語、生活習慣、宗教も違いますし難しそうです。
今回もベトナム国境近くに位置する村でして、住民もラオス人ではなく言葉もラオス語では
ありません。ベトナムに近い為、軍事基地も近くにあり深夜など事件が起こる要素を持って
いる場所でした。ラオス政府のスタッフの影ながらの協力にて、県知事、郡長、軍司令、警
察の全てに根回しいたしました。話の発端は日本の政府系のボランテアの方を通してです
が、ラオス人の援助にまつわる話には、援助を切られるので絶対服従というお国柄を理解さ
れておらず、村との話だけのようであったのには、場所柄現地にスタッフを向かわせてびっく
りいたしました。また人を使う場合も援助系については、大きな援助が後からついてくるので、
対手の言うとおり日当4-8ドルなど、そば一杯で終わってしまう金額でも同意、我々が仕事
として依頼した場合は、冗談ではない。。。。そば一杯も食えないじゃないか。と拒否されてし
まいます。JICAの方々も、もう少し現実を見てのアドバイスいただければと、何か問題が起
こってからでは遅いのではないかと存じます。これまでいろいろのボランテアの方々ともお仕
事させていただきましたが、民間の方々は、此の点しっかりとしたアドバイスとスタッフのご
紹介いただいております。今回は、ラオス政府の方が、理解を頂きご協力いただけましたの
で、細かい説明せず処置はさせていただいたようです。
サワナケットからは国道9号線がベトナムドンハーまで延びております。ここは同時にアメリ
カにとって反共の拠点だった、タイとベトナムが一番近く結ばれる位置として重要視された拠
点でもありました。一歩奥地に入れば地雷、不発弾があるやも知れません。以前は、このあ
たり北爆数多い爆弾の破片が出て、10輪トラックがひっきりなしに往復、トラック一杯の爆弾
くずと当時援助の粗悪なロシア鉄をまぜ、コンテナ船でタイにタケクなどから送り製鉄しなおし
利用しておりましたことを、世界まるごとハウマッチで取材したことがありました。其の当時は、
この国道9号線爆弾のアナだらけ、撮影車5人ほどでしたが一般車両は動かせず10輪トラッ
でした。其の当時と比べればこのあたり変わっているのでしょうね。
29日までラオスサワナケット中心のご手配いたしました。ラオスも日ごとに整理された街に
変わってきております。ビエンチャンには、以前民主系共産系が退治した事務所を持ってい
た、朝市も整然とした市場になり、ショッピングモールも出来ました。40年近く前より滞在延
長の査証更新の為、バンコクから赤土の国道をまじえて真っ赤になりながらノンカイに、渡し
船で対岸に渡りラオスに入国、そこから一人50バーツの乗り合いタクシーにてビエンチャン
タイ大使館に、翌日取得の為一泊するのですが、当時一軒だけの高級ホテルランサンホテ
ルに泊まる金も無く、竹で作られたアンペラ建ての、50から100バーツの安ホテルに宿泊
でした。其のときの朝市は、まさに街の生活の全ての中心でした。市場の真ん中に、共産
プリンスの率いる部隊と政府軍が、互いに銃を持ちにらみ合っているにかかわらず、市民は
平気で日常生活を、そして双方の軍人も軍務を離れると、互いに市場でお買い物風景でし
た。それが大きく変わってしまいました。タイ的な、韓国的なファッションと髪型の若者達が、
行き来する新しい街になっております。ラオポップなるブームで、コンサートが開かれたりと
日本の援助にてイベント広場も完成いたしております。
私達がラオスに行っていた当時は、ラオス日本大使館の旧軍人日本人スタッフを訪ねた後
ジャール平原にて、行方不明になった国会議員、太平洋戦争中の有名参謀だった辻 政信
氏が行方不明になり、終戦時タイから中国本土を経て日本に逃避行した経歴から、北ベトナ
ムに行ったのではないかなど、憶測された時代でした。
ラオスは当初、日露戦争でアジア人がはじめて勝った国として、日本に対する信望厚く、日
本に追いつけという政策をとって、アメリカに追従するタイを軽蔑しておりましたが、ベトナム
特需など近代化の進むタイを見て、それまでの日本という目標から、タイの追いつけ追い越
せのチンタナカンマイ(新政策)政策をとり、国境事情から子供達が、日本の漫画をタイ語テ
レビで見てラオス語を忘れていく、重大な問題から日本の援助などでラオス語識字教育を
進めたりの努力は、今も続いてはいるとは思われますが、取った政策は成功したようです。
以上のことは、あくまでも主都ビエンチャンであって、地方では多くの問題は抱えているよう
です。民族的にも、高地ラオ人(モン族が中心でベトナム戦争においても、アメリカの傭兵と
なって戦いそのために、べトコン、北ベトナム兵との直接直接戦闘となり、アメリカの北爆は
国道9号線以北シエンクアン県を中心に行われ、それ以前大戦終戦後は、反共と称しての
CIAの手先となっての麻薬王クンサー、アメリカの援助を受ける政府軍と三つ巴の戦闘をし
ていた山岳民族。)中地ラオ人、低地ラオ人に分かれており苦しい政策実行にはなっている
ようです。言語、生活習慣、宗教も違いますし難しそうです。
今回もベトナム国境近くに位置する村でして、住民もラオス人ではなく言葉もラオス語では
ありません。ベトナムに近い為、軍事基地も近くにあり深夜など事件が起こる要素を持って
いる場所でした。ラオス政府のスタッフの影ながらの協力にて、県知事、郡長、軍司令、警
察の全てに根回しいたしました。話の発端は日本の政府系のボランテアの方を通してです
が、ラオス人の援助にまつわる話には、援助を切られるので絶対服従というお国柄を理解さ
れておらず、村との話だけのようであったのには、場所柄現地にスタッフを向かわせてびっく
りいたしました。また人を使う場合も援助系については、大きな援助が後からついてくるので、
対手の言うとおり日当4-8ドルなど、そば一杯で終わってしまう金額でも同意、我々が仕事
として依頼した場合は、冗談ではない。。。。そば一杯も食えないじゃないか。と拒否されてし
まいます。JICAの方々も、もう少し現実を見てのアドバイスいただければと、何か問題が起
こってからでは遅いのではないかと存じます。これまでいろいろのボランテアの方々ともお仕
事させていただきましたが、民間の方々は、此の点しっかりとしたアドバイスとスタッフのご
紹介いただいております。今回は、ラオス政府の方が、理解を頂きご協力いただけましたの
で、細かい説明せず処置はさせていただいたようです。
サワナケットからは国道9号線がベトナムドンハーまで延びております。ここは同時にアメリ
カにとって反共の拠点だった、タイとベトナムが一番近く結ばれる位置として重要視された拠
点でもありました。一歩奥地に入れば地雷、不発弾があるやも知れません。以前は、このあ
たり北爆数多い爆弾の破片が出て、10輪トラックがひっきりなしに往復、トラック一杯の爆弾
くずと当時援助の粗悪なロシア鉄をまぜ、コンテナ船でタイにタケクなどから送り製鉄しなおし
利用しておりましたことを、世界まるごとハウマッチで取材したことがありました。其の当時は、
この国道9号線爆弾のアナだらけ、撮影車5人ほどでしたが一般車両は動かせず10輪トラッ
でした。其の当時と比べればこのあたり変わっているのでしょうね。
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