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タイで30年 テレビ・CM製作のコーディネーター タイミカサ

ミャンマ撮影行、その2

前回に続いてミャンマの話を。。。。。。。。。。

現在では、タイ陸軍諜報部が麻薬に絡み公表いたしましたが、奇しくも今日、
但し昨年、仏歴2550年(2007年)10月31日の新聞記事に、同年10月
26日74歳にて麻薬王と呼ばれたタイヤイ族の実力者クンサーが亡くなった
というものでした。今回のお話は、その彼の活躍の地、黄金の三角地帯、軍
事政権に合流してヤンゴンでの生活を始めた彼に変わっての王、赤ワ族の
本拠地ワンラーにまいる機会を得ることがあったことです。当然ヤンゴン経由
では全く無理ですので、これまで自分で作り上げたルートを辿って、メーサイ
より入ってまいりましたが、現在でも各ポイントのみを掌握する政府軍、接す
る少数民族軍の構図は、その当時も変わりませんでした。未知の世界でし
て、スリルとサスペンス(?)がありました。当時そのエリアに入るのは、タイ
陸軍諜報員か麻薬密売に携わる者達だけだったと存じます。

これまでにもメソッドから、市中にあるカレン軍の大使館?にいる大佐に入
境証を頂き、インパール作戦から逃れ、山岳民族の奥さんを娶り、カレン軍
の軍事教官をして生きながらえてきた酒井さん、息子さんの協力がなけれ
ば出来ませんでしたが、サルウイン川の急流で岩の多い、操作を誤れば船
は大破の支流を遡り、カレン軍ボーミヤ大統領に会いにいったりもありました。
クンサー麻薬王がカレンのボーミヤ大統領と会談を開き、麻薬精製が山中で
は難しくなり、採集した芥子をカレン領を経由してアンダマンの海上にて麻薬
精製、更に逆経由にて黄金の三角地帯にて密売を行う情報から、現地に入
ったのですが、私達撮影クルーーがクンサーに直接会ったという誤情報から、
私、ブラックリストNO.2に挙げられたこともありました。因みにNO.1は、イレブ
ンPMで直接クンサーを取材した馬渕さんでした。馬渕晴子さんの弟さんです。
こちらは、バンコク市内のクンサーの窓口のひとつと繋がります、今はいいで
しょうか、キリン中華レストン(?)から幾つかののポイントを経由されて、困難
と危険の中で取材されたものです。今考えると何か取材が楽しかった思い出
があります。

本題に戻りますと、メーサイのタイ出入管警察で特別に出国許可(?)を頂き、
国境に掛かる橋を渡りましてミャンマ出入管軍警事務所に、そこで予めチェン
マイにてコンタクト済みの諜報関係の軍人と思われる者と合流、その後その者
の案内にて車でタチレクの空港まで移動、ここで国境係官の検査があって、も
ちろん携帯電話、ビデオなど持ち込み出来ませんが、テント張りの検査場の中
で多いと思いましたが、100ドルを掴ませ何とかカメラのみ持ち込みました。空
路チェントゥンに入りますと、ここはタイヤイ族のエリアになり中国的雰囲気の街
となります。ここでの言い伝えでは、ここに住む人々はタイのアユタヤ時代に活躍
の、山田長政の時代の日本人街から逃れてきた日本人であったと、老人たちは
言っておりました。タイのアユタヤ王朝内の争い、おじ王が王位を継承する戦いを
起こし、山田長政達は日本のように、父が王であれば息子が継承と考え、世話
なった遺児を立てての戦いに敗れ、山田長政は毒殺され、日本人町の日本人は
南のマレーシア、遠くインドネシア、ミャンマなどに逃れたわけであるが、その中で
タイの北チェンマイから、更に北のこのチェントゥン迄逃れた史実があるとは、驚き
ました。軍事政権のミャンマにあって尚且つ影響力のある力を持つ、チェントゥンの
人が日本人の末裔かも知れないなーと感じた次第。実はこの旅、雷波少年番組で
占いの旅が企画され、中国で印象の強い占い師が居り、サイドこの者に見てもらう
為訪ねたところ、修行に出て今はいないといわれ、その修行の地はとなったときに、
中国とミャンマの国境エリアの山中であるとのこと、そこで物好きな私のところに、
その場所は、との問い合わせがあって始まったものだったのです。ですからもちろ
んチェントゥンでもそのリサーチを致しました。なにせミャンマには、ETと呼ばれる
有名なタイ人高官も見てもらう占い師がおりますほどです。街中の寺院の一角に
て占い師紹介され伺ってみましたが、もちろんこの方ではありませんでした。この
方も、近くから葉を持ってこさせ、その葉の条脈をみながら占うというものでしたが、
蝋燭の火の下幻想的でした。ここで情報として、更に中国国境に向け北上すれば、
修行所たる場所があるのではないか、とのことを伺い、ままよと向かうことにしまし
たが。。。。。。。。。。。大変な山道と政府軍の検問が厳しく待っておりました。

次回続けます。

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ミャンマ撮影行

これまで企画されながら、なかなか完成されない国、ミャンマ?
政情不安であったり、日本人記者が射殺されたりと目まぐるしい状況変化が
あります。こんな国ですが、近代化を広げる東南アジアの国々の中、文化的、
生活習慣など、昔ながらを残すのがミャンマではないでしょうか。

これまでもヒマラヤ山系に生活する小人族、タロン族は純血継承者は3名、そ
して年齢も今では60歳ぐらいですから、すでに亡くなっているかも知れません。
山を越え、木を渡しただけの一本橋をわたり、崖をまわり、危険と恐怖と怪我の
撮影手配もありました。

またレド行路、インパールから中国国境まで、第二次大戦中アメリカの航空隊と
英国軍が完成させた援蒋ルートですが、あのようなヒマラヤ山系の深い密林の
中、片道飛行のアメリカ航空隊が中心となって昆明近くまでの道路ですが、今だ
交易路として存在いたしております。この道をたどった撮影もありました。このエ
リアは、日本関係でも児玉機関、笹川機関などがミャンマから昆明ルート(日本
は攻撃ルート)に進出する道でもありました。現在でもカチン族が抑えております
この地域は、地下資源が豊富で欧米、日本とのつながりが深く、問題の多い軍
事政権において、唯一外国援助の中継の出来る、ミャンマ諸民族の中でも発言
力を持つところであります。私が、30代ですが、国境を越えてミャンマ領特にこの
エリアに入るとして、笹川氏の所にまいりますと当時100万円は援助いただけま
した。これは戦時中のこのエリア入りで、豊富な地下資源が埋蔵されていること
を知っていたからにならないと存じます。

今ではどうでしょうか。30代当時はカチン州の黒い蘭の花を捜す話に、入ってみ
ようかと考えたものでした。蘭については、メーミョーまで入ったことがありまして、
ここから更に北上していく路上で偶然にちせい蘭を見つけたこともありました。この
当時はマンダレーからメーミョーに向かうと検問が閉められ、都合よく戻る時また
開門するなどの経験もしました。メーミョーは、インパール作戦時の最高司令部が
置かれたところで、紫の桜のような花が町を染める美しい情景を見ました。ちせい
蘭は、そんなエリアに入り何もない山道を移動中、おトイレタイムとして休み、がた
がた道の疲れを癒す為、何気なく道の傍らにすわったところ、お尻の下にあったの
です。

マンダレー、昔の王都、英国の植民地になる前、最後の王朝のあったところですが、
ここになんと世界中のおかまさんが集まる祭りがありました。世界中でおかまさん
が、堂々と黙っていてもお金に包まれるのはミャンマだけでしょう。タウンピョンの
祭りです。日本からもおかまさんがまいりますそうです。確か8月の祭りだったと
存じます。軍事政権のミャンマ、銃殺されるというおかまさん、堂々と集まるとこ
ろが、ヤンゴン、ボジョーマーケットの一角にあります。全て美容院ですが、ここに
おりますおかまさん、ナット神の生き神様、政府の高官もお告げを聞きに祭りには
来るそうです。

 

秩父ヤソトン国際交流の足跡

TBS世界まるごとハウマッチ、覚えておいでですか?
大橋巨泉さん司会で、石坂浩二、たけしさんレギュラー出演の番組でしたが。
この番組の中でも結構メンダー(タガメムシ)、ゴキブリのような話題になったの
ですが、多くのタイネタがありました。釘抜き心霊治療など思いで深いネタもあり
ました。
そんな多くのネタの中で、打ち上げるロケット一発ハウマッチで紹介致したこのネ
タが、こんなに長く関わるとは思いも依りませんでした。まだまだヤソトン県は、存
在せず、大きなウボンラチャタニ県の一部でした。こんなに大きなネタになるとは思
わず、こんなネタがあると言う情報だけで取り上げたものでした。たまたま会社近く
の古式マッサージに入り、マッサージを受けながらひょんなことからこの話が。丁度
マッサージしてくれているおばさんが、それは私の実家付近が中心だよ、との話に
なりまして、じゃーバス代出すから話してくれないかと駄目元にて依頼。他のネタを
撮影して戻ってきてまたマッサージを受けに入ったところ、おばさんが来て、全て手
配済みとの話になりまして、それでは行かねばなるまいと半信半疑で同行。まず
村に着きましたら、ピー(東北タイでは我々外部の人間は悪霊)を除霊すると言う事
で、長老たちが集まっているところに、そこで村人から両手のひじから手首までぎっ
しりとサイシンなる聖糸をクルー全員が巻かれてしまったが、案内のおばさん曰く、
これで我々がいる間事故があったり、子供が病人になったりしても村の一員になった
のだから、我々は悪霊達と追い払われないだ、そうです。それから始まった撮影の
手配は、コーディネーターの私以上のおばさんの段取りの良さ、ロケット製作の段階
的シユミレーショーンあり、村の真ん中の道を挟み二つのグループに、それぞれにタ
イダンスの踊り子チーム、ロケットを載せた山車、パレードと素晴らしい祭りになった
のです。それもそのはず、そのおばさん、マッサージのおばさんとおもっていたのが、
なんと村長の娘さんだったのです。

この時は、困ったのは打ち上げ場所、田植えもはじまっているところもあり、やたらに
許可取れず、仕方なくメコン川をはさみラオスに。政情不安な折、急いでこの地を離
れました。打ち上げの時、最初は見くびってロケットの近くにカメラスタンバイ、点火、
突然の轟音に撮影そっちにおいて逃げ惑いましたことも思い出です。

ところがこの時の映像を見て、旧吉田町よりご連絡があったのがこの交流の始まり
でした。確か最初のご連絡頂いたのが平成4年だったと存じます。そして1994年、
平成6年11月タイに最初の視察団がお越しになりました。この時は確か6名でした。
この視察を機会に、平成7年、1995年5月正式な招聘をヤソトン市より頂き、この交
流は、交流の一歩を踏み出した訳です。確かこの時は8名でした。1996年、平成8
年5月に第2回訪タイ団がヤソトンに。そしてタイより第1回の訪日団46名が、10月
ウイラワット市長を団長に秩父にお伺いいたしました。日本側では、1997年にヤソト
ン会が発足致しております。1999年、平成11年には、姉妹都市宣言に署名、在日
タイ大使、マヒドン王女など参加が見られるようになりました。本年までタイ側参加者
580名にならんとしております。

バンブーロケット、龍勢祭りその2

前回読みにくい記事にて失礼致しました。
しばらく振りにて枠取り忘れてしまいました。

まずタイのバンファイ、バンブーロケットについてご紹介いたしたいと存じます。

日本テレビ世界の果てまでイッテQにて、宮川さんのシリーズでヤソトンの棟梁と
一緒に、ロケット作りから打ち上げまで紹介を致しました。日本では、いろいろの
規制がありますから、まず無理な撮影でしたが多くの協力で完成いたしました。こ
のエリアでは、この雨乞いロケット祭り、雨季入りのローソク祭り、雨期明けのボート
レースなど農耕文化に関わる伝統的祭りが多くあります。

ヤソトンは、タイの東北部に位置し、メコン川の支流チー川の流域でもあり、農業と
養蚕の織物業が主要な産業です。このヤソトンにて、毎年おそらく数十箇所の東北
地方で打ち上げられるロケットの祭りが、五月の第2日曜日に開催されます。ロケッ
ト装飾の美しさ競うパレードと、その打ち上げの高さを競うロケットの打ち上げが行わ
れます。周囲を含めてこれまでのロケットの打ち上げは、賭けの対象で掛け率が決
まりませんと何時間も打ち上げられず、のんびりとした雰囲気の中での農民達の娯
楽でしたが、ヤソトンは、これまで15年に渡る埼玉県秩父市とのロケット交流にて、
祭りとしての形が観光を誘致する市お越し、県起こしになるまでに、纏ってきており
ます。会場近くにはロケット博物館を建立し、日本の龍勢ロケットなど展示されてお
ります。

ロケット祭りですが、位置するタイ東北部は、国土の3分の一を占め、これまで農耕
の灌漑水路が完備しておらず、訪れる雨季が大切であった。国王は、その王室プロ
ジェクトで人口雨が強力に推し進められておるほどです。ですからバンファイの祭りは、
田植えの時期に神に願う重要な祭りになっております。

ロケットの火薬筒は、従来は竹文化に象徴される竹であったが、最近はエスロンが
多くなってきている。大きいもの下は口径15センチ以上、長さ2.5メートル以上にな
る。これにハンと呼ばれる矢柄竹がつけられ、火薬は自ら製造の黒色火薬で、硝石
と墨の使用は共通している。これまで蝙蝠の糞、家畜の糞を床下で寝かせての硝石
を、利用方法も見られた。火薬は、まず火薬、炭、水を少量ずつ加え弱火にかけ、そ
の後乾燥させ細かく砕く。そして機械ジャッキーで筒に押し込め、導火線に絡み筒の
中央部にドリルで穴を開ける。そして矢柄竹と接続されていく段取りで作られていき
ます。最近では、高さを競うがあまり、必要以上の火薬を詰め込んでロケット作りをす
る危険性から、交流による秩父の龍勢ロケットのように落下傘を釣ったりのみせるロ
ケットに変わりつつの傾向も見られるようになってきています。

埼玉県秩父市龍勢ロケット祭り

日ごろの忙しさについついブログ怠けてしまいました。

去る10月10日より、主催のお手伝いをして15年目になります伝統ロケット
文化交流に、タイ国ヤソトン県ヤソトン市の皆様、国立ラジャパットウボンラャ
タニ大学副学長はじめ教授方、タイ政府観光庁副長官はじめ局長クラスの
方々ご一行48名の方々を引率して、交流相手であります埼玉県秩父市吉
田にて開催の龍勢ロケット祭りに参加いたしました。タイヤソトンは、雨乞い
ロケット打ち上げ、日本秩父吉田は五穀豊穣御礼ロケットと相互の打ち上げ
目的は違いますが、農業特に米作中心の文化圏にあるものとして共通性を
持っております。タイは、より高く打ち上げることによって神々へのシグナル
(?)にと考え、60キロ、120キロ、250キロの火薬を使用、2006年には、
とうとう1トン1000キロの火薬のロケットを打ち上げております。当然事故も
多いのですが、失敗をすると泥炭の池にロケット製作者投げ込まれたり楽し
い打ち上げ風景でもあります。タイではブンバンファイ又はバンファイトと呼ば
れております。この文化は、さらにラオス中国雲南省シップソンパンナ地方に
も見られます。農耕文化圏にあると見られます。日本の場合は、五穀豊穣で
すから、高さと言うより釣り物のある美しさを競うものになっております。静岡
県、滋賀県にも、同じ龍勢、流星と呼ばれるものが見られます。
今回参加の秩父市龍勢は、椋神社の龍勢として打ち上げに際しての口上で
は、400年の伝統を受け継ぐとされ、戦国時代の狼煙から工夫改良されたも
のと考えられますが、起原はまだまだ解らないのが実情のようです。27の流
派がありまして、例年30発以上のロケットが打ち上げられております。名前の
表すがごとく龍の舞に似た美しい形を、釣られた傘、落下傘、色煙にて表してお
ります。
秩父市とヤソトン市は、伝統的文化交流の姉妹都市として、数ある日タイの交
流の中でも特異なそして貴重な位置を持っております。昨年の日タイ修好120
周年記念としてタイ政府観光庁は、30人近いタイダンスダンサーを送り込みま
したが、本園も引き続き27名のラジャパットウボンラチャタニ大学の舞踊団を
送り込み、重要な年中行事としてバックアップされております。
本年は、引き続き秩父市のゴミ処理、環境施設などを積極的に訪れたり、中学
高校生のホームステーを来年度から実行すべく、真剣な訪問でした。
次回は、吉川先生との動きからもう少しロケットの歴史などご紹介いたしたいと
存じます。